夜も更けた朝が近い霜月の深夜。 地には重く雪の切片が降り積もっていた。 四方を塀で区切られた庭園の母屋となるその屋敷は広大で、塀に面した場所にある数々の枯れた木々と、庭の丁度真ん中に作られた所々表面に氷の張った池のある美麗な庭園がある。 和風一色の、白で彩られた寒気の満ちた広い庭園は、見る者にこの季節、凛とした冬の風情を心の芯まで浸透させる。 「―――――今年は少々早いですね」 庭に面した屋敷の一室の、襖と障子が人一人分ほど開いており、そこから朧げな明かりが漏れていた。 その頼りない光源に照らされた庭園の丸い石段の上に、一人の白拍子を着た十六歳ほどの、臙脂色の長髪を事細かに結い上げた娘が居た。 女は部屋から漏れ出す明かりと、暗黒色の空に見え隠れする月明かりとを頼りに、先程からただ空を仰いで、天からゆらゆらと舞い降りる牡丹雪を飽くなき事見ている。 水干の裾を握り締め、娘が口を開く。 ――天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ 乙女の姿 しばし留めむ―― 独特の符丁と玲瓏たる声色で、娘は詩を諳んじた。 それは遠い過去の自らの祖先が生み出した文化の一つだった。 その文化形態は現在の世界文化と比べれば、既に絶えて等しいと言えるが、その娘の家系は祖先の血が色濃く伝わっており、故に娘も幼い頃から教養として様々な作法を伝授されていた。 ふぅ、と吐く息が白く、娘の周囲の冷気の様子をありありと伺わせる。 「沙夜お嬢様」 スッと障子が開き、娘の侍従と思しき着物を纏った女が二人、庇のある木造の簾子に無駄の無い動作で出て来る。 声を掛けられ、屋敷近くの石段の上で空を見上げていた沙夜と呼ばれた娘は、落ち着いた動作で侍従を振り返る。こちらは無駄の無いを通り越して、形容するならばそう―――"感情の無い"動作で振り返る。 「御父上様がお呼びでございます」 「そう」 対する彼女の声は素っ気無く、先程の声とは違った声色を含んでいた。 彼女は屋敷へ続く階を上がり、部屋の方へ入っていった。最後に侍従の一人がタンと二度、襖と障子を閉める音が響き、最後に蔀が下り、庭園は再び無音の闇と化した。 ここはレイヤード、一つの機械が全てを支配する、地下世界 ―――――――――【見上げる濃灰色の空】第一話――――――――――― 沙夜は今、父親の居る簡素な作りの、それでも莫大な金と匠による技巧の凝らされた格式のある一室の、畳の上の座布団に、正座をして目を閉じて座っていた。 頭上を仰げば、漆で塗られた梁が頭上に巡り、正面に座す白檀には、墨痕鮮やかな流麗たる草書で書かれた掛け軸が下がっている。 部屋の隅には、香を焚くための火取香炉と共に、侍従がいつでも自分の用を足せるよう控えており、そこから紫苑の香が満遍なく部屋を覆い尽くしている。 自分と侍従の待遇の違いは、彼女等と自分の間にある"身分の違い"と言う、家に伝わる概念の所以だった。 自分の斜め手前、囲炉裏の傍で灯っている行灯の明かりが、自分と侍従を投影し、廊下側の障子に影絵を作っている。 ふと、障子にもう一つ、細長い影が現れた。 「――――待たせたな、沙夜」 障子を開けて入ってきた中背で痩身の和服の男は、良く通る弓の張ったような声で挨拶を告げた。 「いえ、さほど待っておりませぬ。御父様」 男は囲炉裏の前、沙夜の対面側に座ると同時に、慣れた様子で侍従に茶菓子を用意するよう指示する。茶は良いとして、菓子は自分に与えるつもりで指示したのだろう。だが、自分はそれほど幼くない。 「しかし、今日は一段と冷え込むな。外は雪か」 父は先程まで企業の重役と会談をしており、昨日の夕刻から家に篭りっきりだった。 「ええ。今日の朝方まで続くとか――――して、御父様。今日はどのような御用でしょうか」 沙夜の控えめながらも凛とした声が、部屋の隅にまで響き渡る。 丁度その頃侍従が茶の用意を終え、丁寧な動作で囲炉裏から離れて、再び部屋の隅に戻ろうとしたところを、父が席を外すよう命令を下す。 父親は茶を一口啜り、それから沙夜の目線に自らの目線を合わせる。 その動作で父親の大体の意図が判った。 「………………かしこまりました」 沙夜は膝の前に両手をつき、優雅な動作で一礼する。 「聡いな、お前は。まあそう早まるな、違う用かも知れぬぞ?」 再び顔を上げ、無表情ながらも瞳に少々不思議な色を浮かてみる。 「違う用――――とは?」 父親は口元に冷笑を浮かべ、再び湯呑みを口に運ぶ。 「例えば、夜伽など」 「ご命令でしたらお相手いたしましょう」 自分の娘のまるで投げやりな言い様に、父親は湯飲みを置き、軽く溜め息をつく。 「まったく、我が娘ながら呆れるな。これほど"優秀"に育つとは」 「呆れるとは心外でございます。冷静さは、家に伝わる心得の最も必要な事だと教わりました。"仕事"に必要あらば夜伽も致します」 反論とばかりに沙夜は応える。その言葉を言い終えるまで、表情は一切変わる事は無かった。 沙夜が言い終えると、父親は腕を組み「良かろう」と一声し、無表情になって懐から一巻の巻物を沙夜の前に差し出す。 「――――管理者からの依頼だ。この仕事、お前に任せるぞ」 沙夜は無感動にその巻物を、着物の袖中に収める。そして一礼 「…………"お仕事"、確かに承りました」 ――――――――――――――――――――――――――――――――― 先日の雪とは打って変わって、この日は乾いた日だった。 土に染み込んだ雪解け水は半ば乾いていたが、それでもまだ地面は少し湿っている。 時刻は夜、既に日の落ちた街はイルミネーションの綺麗な夜の街へと変貌し、大通りは夜なりの喧騒で賑わう。 そんな大通りとは対照的な薄暗い路地裏――――臙脂色の着物を着た、臙脂色の髪の少女が、一体どう言う歩き方をしているのか、気配すら立てずに歩いている。 何故かその顔には薄っすらと微笑が浮かんでいる。 「三…四人か……」 少女は誰にも聞き取れないほど小さな声で呟く。少し歩調を速めてみる。すると微かな気配もそれに続いて早くなる。 共に気配消しを行っているが、この辺りに住む者ならば気配消しなど標準技術であり、さほど珍しい物ではない。 ふと、少女は足を止め、背後を振り返る。 物陰から四人ばかりの男が姿を現し、ゆっくりと少女に近づいて来た。 「お嬢ちゃん。こんなところを一人で歩いてちゃいけないなぁ」 男の一人が言って少女の視線を受け止める。残りの三人は少女の退路を断つように回り込む。 「そんな色っぽい格好で寒くないか?なんなら俺達が温めてやろうか」 背後から男の笑い混じりの声が聞こえ、他の男も卑下た笑い立てる。 「クス」 少女――――沙夜は微笑のまま、微かに声を漏らすと目を閉じた。 「……いいでしょう。私も最近気詰まりで欲求不満ですので」 「お、こりゃあ随分と開放的な女だなぁ。お前等、暴れねえように――」 その瞬間。沙夜が眼を開くと同時に、何の予備動作も無しに、臙脂色の着物が緩やかに舞った。 シュン――――――― 鋭く空気を切る音が薄暗い路地に響き渡った。それだけで事は済んだ。 数分後、沙夜は何食わぬ顔で路地から大通りへ出た。 「――あ…」 臙脂色の鮮やかな着物の足元付近に、少しだけ色の違う小さな赤い染みが、一点付着していた。 だが、それは余程目聡く、視力の良い者しか気づかぬほど、臙脂色の着物の色と同化していて問題にはなるまい。元々血痕を誤魔化す目的の着物なのだ。 沙夜は着物の裾を僅かに直し、また光の街を歩き始める。 ――――――――――【見上げる濃灰色の空】第二話――――――――――― 窓から眺める外の景観はさほど良いとも言えず、ただ暗灰色のビルや建物が立ち並ぶだけ―――― 外に街頭はほとんど見当たらず、ただ月明かりと、部屋から漏れ出す電灯の光だけが、この近辺での唯一の光源だった。 ベッドの上で窓枠に頬杖をつき、もう一方の手は口元に運ばれており、そこから紫煙が吐き出される。 「…………」 男は無言で煙草を燻らせる。その他の行動は一切せず、ただ、ただ煙草を燻らせていた。 一見すると退廃的で、非活動で、無気力な青年と見られるかもしれないが、彼の本質はその真逆なのだ。 「………どうして死んだんだよ……アイツ……」 だが今は先日の彼の出来事で気鬱になっていて、少々自棄になっている。 コン コンと、彼の背後にある扉から控えめなノックの音が響く。その音にも彼は反応せず、ただ煙草を燻らせる。 しばしの沈黙。 少々して再びノックが聞こえる。今度は少々強い響きを持っていた。 どうやらドアの向こうの人物は、自分が部屋に居る事が判っているらしい。 知り合いの少ない彼に用がある者など、ほとんど居ない。ましてや彼の住居であるこの場所は比較的治安が悪く、用も無しに訪ねるには少々物騒な場所だった。 一体誰が?男は警戒し、思考を巡らせたがそれも一時の事で、直に結論がついた。 「………入れよ。開いてる」 ドアの向こうの人物に低い声色でそう言い、煙草の灰を灰皿に落とし、そのついでに押し潰して消火する。細くたなびいた煙越しにドアを見やると、遠慮がちにドアが開く。 「―――――失礼します。娼館の方から使わされました、今宵の御相手をさせて頂きます―――沙夜と申します」 瑞々しい凛とした高い控えめな声が、部屋に響き渡る。 そう、彼は数時間前娼館に娼婦を一人よこすよう連絡を入れていたのだ。 自棄になった故の行動であり、実はそんな連絡を入れていることを忘れているくらいその気など無くて、金払って追い返そうと思っていたが――――― 「………どうかされました?」 ドアから現れた臙脂色の少女は、心底不思議そうな顔でベッドの上に視線を向ける。 「……いや、あんたみたいな綺麗な女も、体売るような商売なんかするのか、と思ってな」 目の前の女に、何故か変な所で感心して、自分でもよく判らない溜め息が出た。 「―――それは人それぞれでしょう。さて、お相手差し上げる前に、当店では衣を脱ぎながら舞を舞うと言う作法が御座いますが、宜しいでしょうか?」 「………別に構わないが、変わった作法だな」 では、と飛雪と言うまだ若い少女は、落ち着いた動作で和服の裾に手を入れた。次の瞬間、少女の指が閃いた。 その時、男は脊髄反射でベッドからに飛びのいていた。 シュン―――――― 空気を切る音と共にベッドの傍にあった寝具が全て――――弾け飛んだ。 男は先程の様子からは想像できないほどの俊敏さで、その攻撃を回避したが、その顔には緊張と焦りが走っている。 だが沙夜と言うその少女は、転瞬の一撃を回避された事に、彼以上に動揺していた。 「鋼糸か……」 床に着地した男が、多少の畏怖を含んだ声色でそう呟いた。彼は彼女が"暗殺者"だと言う事を見抜いていた。 多分、自分以外の者だったら、多少彼女を不審に思うくらいが精一杯で、先程の一撃で仕留められていた。そう思うと男の背筋に、外気とは無縁の冷たい汗が流れた。 「……よく…かわせましたね……あなたが初めてです」 少女の右手の薬指から、目に見えぬほどの小さな煌きが地面に走っている。それは耐久度の高い特殊金属をギリギリまで細く加工した糸だった。 鋼糸とは極めて危険で扱い憎い、秘伝中の秘伝の暗殺道具で、触れる物を全て断つ切れ味を誇り、下手に障害物に隠れでもしたら即アウト。鋼鉄すらも容易に断つので、銃弾よりも余程殺傷力がある。 「その服に、血の匂いが無ければ死んでいたな」 少女の着物から発せられる微かな――――血の匂い。 視覚では確認できなかったが、嗅覚は彼女が入ってきた瞬間、それを感知した。最も一撃を回避出来たのは運の要素が高いが。 もちろん、先程感心したのは、この少女がこの年齢にして既に一流の鋼糸使い――――暗殺者ということ故である。 「……疾ッ」 再び少女が一舞いする。舞に伴い、光の雫がうねるように迫り、飛びのいた後方の一直線上の家具と言う家具が断たれた。 男は少女の繰り出す攻撃を回避しながら、即座に戦術を組み立てる。そして床を蹴って少女との間合いを詰める。 鋼糸の攻撃は間合いが広く、この部屋の範囲で回避し続けるのは不利、が反面近距離では速度が劣り、その攻撃はほぼ無力化される。 左の二の腕辺りに鋭い痛みが走り、鮮血が迸ったが、痛覚を抑えて少女の懐に入り込む。 「鉄扇ッ!!」 少女が左腕を右袖に差し入れると、袖からパッと扇が即座に閃いた。 咄嗟の攻撃を回避しきれず、右肩と左の頬に赤い線が走った。だが浅い。 少女が攻撃を繰り出して出来た隙に、彼女の左手首を掴み捻り上げる。 「痛いっ!」 少女の手首から滑り落ちた鉄扇が、金属音を立てて、床に突き立った。合気道の要領でそのまま彼女の腕を回転させ、ベッドの方向へ投げ飛ばす。 「……チッ、随分と物騒な娼婦が居たもんだ」 言いながら男は、自分の体の傷の状態を確認する。 左腕の傷が深かった、一応右手で抑えて止血する。 投げ飛ばされた少女は、ベッドでしばし苦痛の声を上げたが、直ぐに起き上がり、右手の薬指から鋼糸が取り外されてるのを確認して舌打ちする。 「……何処の者だ。誰から雇われた?」 「……………」 少女は無言、ただ口を真一文字に引き結んで、まるで親の敵を見るような眼で睨んでくる。隙あらば攻撃する態勢だった。 だが格闘戦では自分の方に分がある。少女もそれが判っているのだろう、用心深くこちらの隙を伺っている。 「…沙夜……とか言ったな、確か」 「………」 無造作に落ちた鉄扇と、鋼糸を拾い、医薬品のある棚の方へと歩み寄る。 「――――記憶にある。確か古くから伝統文化を受け継ぐ、管理者保護指定のクレストの名家―――葛原家の御息女の名だったか。うあ、これアブねぇ、手ぇ切れたし」 「!!」 少女の顔に動揺が走る、まあ動揺するのも当然か。 普通は世間一般では敷地の高い名家の、そのまたマイナーな当主の一人娘の名など知る人物など自分くらいしか居ない。 だがその無駄知識のおかげで、この暗殺の意図は判った。 彼女としては、実名で名乗ったのが仇となったのだろう。動揺が顔に出てた。 「遠い昔に栄えた和国の皇帝の一族の末裔―――――時代が時代ならお姫様な人ってわけか」 「…………殺しなさい」 地が高い声のトーンを下げて、沙夜は半眼で睨みやって言い放った。 ――――――【見上げる濃灰色の空】第三話――――――――― 何たる失敗だろう。 この男は自分の暗殺術をことのごとく退け、更に自分の素性までも見抜いてしまった。 管理者からの依頼の失敗、それがなくても家のしきたりでは、任務失敗は即座に粛清が行われる。それは当主の娘である自分とて例外ではない。 対する男は目線を鋼糸に触れて切れた掌に落とし、包帯でグルグル巻きにしながら――――― 「嫌だ」 と、駄々をこねるように平然と言い捨てた。片手で包帯を結ぶのって結構難しいな、と呟きながら。 「――――お前を殺してもいいが、また次の暗殺者が送り込まれるだけでね。俺的にはそっちの方が面倒だし」 「……命ある限り、私はあなたを殺しにかかります」 言葉に出してはいるが、この男を殺せる自身はまったく無かった。この男は自分の不意打ちですらまったく通用しなかったのだ。 形成が有利になって今、男は呑気な雰囲気を出してるが、かなり――――――――――切れる 男は沙夜の言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、黙々と作業を行う。手際は鮮やかで、止血を的確に行っていた。 自分の作業が終わったのか、男は沙夜の方へと歩み寄る。 「―――――怪我は無いか?結構手酷く捻ったが」 「あなたがやらないのならば、私がやりますッ!」 パンと、小気味良い音が部屋に響いた。 舌を噛み切ろうとした沙夜の顔に、男の手が閃いたのだ。 「…………あ…」 叩かれた左頬を抑えながら、沙夜は唖然として男を仰ぎ見た。男はさっきまでの冷徹な態度が消えて、年齢が二、三ほど下がって見えた。 「……あのな、お前が死んだらもっと腕利きの暗殺者が送り込まれて、俺が迷惑かかんの。判る?オ・レ・が」 「……え?…あ、はい」 言ってる事が良く判らないが、沙夜は頷いてしまった。平手打ちをされたのは生まれて初めてだった。 男は動揺する沙夜に構わず弁舌を続ける。 「それと、自殺とかそういうのは俺の前で絶対すんな。いや俺の前でなくてもだ!!次やろうとしたらマヂギレするからな。判ったか」 「は、はい。判りました――――――――え?いや判ってないです?」 剣幕に飲まれて言った後で、自分の承諾した事の意味が遅れて理解して、訂正するが―――― 「何、判らない?俺の名前?ああ、そういやまだ言ってなかったな。エリスって言う。エリス・アドワード。一応これでもアリーナA-3レイヴンなんだぞ。凄くねぇ?」 「は、はぁ…」 どこか会話が噛み合ってない気がしないでもないが、それでもエリスと言う男の暴走は止まらない。 「ってな訳で、俺はあんたに殺された事にして、あんたは屋敷に戻って任務達成を告げた後、出家する。この筋書きで良いな?そうじゃねえと結構危ねぇ。良いって言っとけ」 「…………無理ですよ…それは……」 流石にそこだけは言い返しておいた。沙夜は俯く。 家の、その世界でだけしか生きて来なかった自分に、その他の環境で生きていく事など無理だろう。 それこそ体を売るくらいしか生きる術は無い。そんな道を選ぶ事になるくらいなら――――死んだ方がマシだった。 「……はぁ、箱入り方の典型的なタイプだな、お前」 男は困ったように腕を組んで、こめかみの辺りに指を当てる。 「お前には足があるだろ。その足は動かないただの飾りか?そうじゃねぇだろ」 「…………」 「あー、お前が一人で生きていけるようになるまで、俺が面倒見てやるからさ。ほら、良いって言っとけ」 「…………ほんとに?」 思いがけない事を言われて、沙夜は思わず顔を上げる。 ――――――――殺し世界から出て、普通の女の子みたいに生きてみたい。 自我を持ち、自分の足でこの世界で生きていく事。 家という箱庭の中、一体どれほどの時間、その願いを望んでいた事か。 自分をその籠の中から解き放ってやろう――――そう提案してくれた男の、琥珀色の瞳を伺う――――― 「ああ、任せとけ―――なーんか小娘っぽくなったなぁ……最初見た時はもっと色香あった―――」 何故か目頭が熱くなった。これは何?と自問する間に、瞳から熱い雫か頬を流れていった。 「お、オイ何故泣く!?じょ、冗談だッ今でも十分色香出てる―――」 エリスと言う男は何故か動揺して、意味不明な台詞を紡ぎ出す。 「――――嬉しい……」 そう言って沙夜は再び俯いた。 自分でもよく判らない感情が胸に溢れて来て、何故か涙が止め処なく流れてきた。 嗚咽が喉から出る。涙が出てくる。もしかすると、これが産声なのかもしれない。 「あー、まあ……左手出せよ。もしかすると折れてるかもしれないから…な?」 心底困惑した声が上から降ってきた。 自分はただ無言で頷いて、エリスに左手を差し出した。 「まったく、女泣かせんのは趣味じゃねぇってーのに………」 頭の上で、台詞とは裏腹に、エリスが苦笑の溜め息をつくのが判った。 何故かその苦笑が、自分が彼を信用するに足る物に思えた。 その後、沙夜は家に戻って、御父様に内心冷や冷やしながら任務達成の連絡を終えると、密かに必要な物を集めて荷を造り、三日後の深夜、こっそりと家を出て――――― 「―――――遅くなりましたかエリス様?」 レイヤード横断用列車の駅入り口近く、搭乗する人と下車する人でごった返す人込みの中、凛とした声が響いた。 その声を聞いて、人込みの中、頭一つ出ている長身のエリスは、周囲をキョロキョロと見回して、ようやく視線が、彼の近くまで来ていた私を捉える。 人込みから出ていた銀髪の髪に、右頬に薄めの止血用のガーゼが張られているという特徴があったので、私は容易に彼を見つけることが出来た。 実はその傷は、自分が彼につけてしまった傷なのだが。 「―――あーいや、悪い。和服じゃなかったんで、直ぐには判らなかった」 「流石に和服は目立つでしょう。私も洋服くらいは所有してます」 「んー洋服も結構似合うな………あ、いや気にすんな」 「はぁ。エリス様のご命令でしたら」 私が言うと、彼は少々しかめっ面をした。 「それと、一つ言いたい事があるが」 「なんでしょうか?」 「……敬語は使わなくていい。俺には」 照れくさそうに頭を掻きながらエリスは言った。そんな彼が可笑しくて、何故か私は笑顔が出た。 「判りました。行きましょうか―――――エリス」 「―――ん、そうだな。列車の搭乗時間に間に合わなくな―――うわやっべぇッ、マジで間に合わねぇ走るぞ沙夜!」 「あっ、待ってくださいっ」 世間では死んだと公表された彼―――エリスと共に生活する道を選んだ。 それは自分で選んだ、生まれて初めての選択だった―――――― 「ふぃー。今日もお疲れさん。俺」 とある場所にあるマンションの一室、風呂場で野太い男の声が、浴室の壁に反射して遠く響く。 短い銀髪の上にタオルを乗せた、大柄な男が肩まで湯に浸かり、胡座をかいて浴槽に身を沈めている。 浴槽の一段上になった、洗面器具を置くための石段からは絶えずラジオの音が響いて、男はそれをBGMにして、仕事帰りの至福の時間を過ごしていた。 トン トン ふと、浴室から続いている洗面所の方のドアからノックが響き―――― 「――――お背中流しましょうかぁー?」 と、瑞々しく、どこか色っぽさのある凛とした声色が浴室に響いてくる。 「はぁい。お願いしま―――――」 男は身を沈めたまま、良く考えず、脊髄反射で応えようとして 「―――せんッ!!!!」 いきなり気合の入った声で叫んだ。声と共に水の跳ねる音が響き、洗面所からクスクスと忍び笑いが漏れてくる。 「待てッ入ってくんな!!ってか、何考えてやがる!!お前最近なんかアレだぞ!アレッ!!」 自分でも何を言ってるのかよく判らないが、とにかく必死になって男は洗面所にいる人物に浴室に入らぬよう、制止の声を上げる。 「アレって何ですか。………夕餉が出来ましたから早めに上がって下さいね」 その声を残して、洗面所に居た人物はそこからリビングへと言ってしまったらしく、ラジオのBGMに紛れて、洗面所のドアがゴロゴロと音を立てて閉まり、パタパタと足音が遠退いて行く。 「ハァ……なーんで俺がアイツを止めなきゃならんのか。普通逆だろ、立場」 足音が離れてからもしばらく男は黙っていたが、やがて男は小声で、溜め息混じりに愚痴をこぼす。そして上に手を伸ばし、ラジオの電源を切ると、身を沈めた浴槽から出て、額に乗せていたタオルを絞って、体を拭き始める。 そして最後に窓を開け、浴室の蒸気を外に出し、洗面所の方に出る。 「変わったなぁーアイツ……」 鏡に映る自分を半眼で見ながら、男は夜着を箪笥から取り出し、着始める。 背後のリビングから「エリス。ご飯冷めますよ」と聞こえてきたので「はいはい、今着替えてますって」と答えて、洗面所のドアを開けてリビングに出ると、臙脂色のエプロンを着た、赤い髪の女―――沙夜が料理の並んだ食卓の前に、微笑を浮かべて正座をしてこちらを見ていた。 俺が沙夜と出会ってから一年程が過ぎて冬の初め。沙夜は十七歳になっていた――――――― ――――――――【見上げる濃灰色の空】第四話――――――――― 「ねえ。エリス」 ふと、沙夜は手にしていた茶碗と箸を置き、目の前の料理を行儀悪くガツ食いして夢中になっている男に呼びかけた。 男はやはり沙夜の言葉が聞こえてないらしく、自分の世界に入ってしまって、無心に白米と魚と汁物を書き込んでそこでやっと口の中のものを喉に通し、続いて山菜に箸を伸ばしたところを―――― 「エリス」 と、沙夜が強い口調で言ったので、箸を浮かべたままパタと一時停止した。 「んぐ―――――なんだ?」 ほとんど脊髄反射で応えているとしか思えない声で、そう応えた。 沙夜はエリスの様子に微笑を浮かべ、さっきから言おうとしてた事を口に出す。 「今日って何の日か、知ってます?」 エリスは、んー、と唸って再び箸を動かし、サラダを挟んで口の中に運ぶ。 「ふぁんのひふぁっけ?」 かなり間抜けっぽい答えが返ってきて、沙夜は軽く落胆する。 「……私たちが初めて会った日ですよ」 「……ああ、そういえばそうだったな……悪い、気が付かなかった…」 何故かその言葉を言ったエリスの表情がほんの少し翳った。単に沙夜に対する謝罪の気持ちとは違った落ち込み方だったので、沙夜の顔にちょっとだけ訝しげな表情が浮かんだ。 「エリス…?」 沙夜が困惑の色でそう口にすると、エリスは微笑を浮かべて 「ほら、お前も食えよ。冷めるぜ」 「はい……」 「そっか。一年かぁー良く一年でこれだけ料理が上手くなったもんだ。お前才能あるんじゃないか?」 結構馬鹿みたいに明るい声を出して、再び美味そうに食事を開始する。 沙夜はちょっとだけ頬を赤らめて 「………ばか」 と言って、再び箸を取る―――――― この一年間、沙夜の世界観はエリスを通して一変した。 見る物全てが新鮮で、躍動感に溢れて、そして自分も色々な体験をして、この世界を知った。 両者とも家を出る際(または身を眩ます際)に少々の生活費を持ち出していたが、それはマンションを借りたり、生活用具を調えたり、当分の食料費でほとんど消えた。 沙夜は今では様々な勉強をしたり、資格を取ったりと忙しい日々で、エリスもエリスで、レイヴン家業を一時休業した今、名を変えて信用できる知り合いのツテを使って、メカニックの調整の仕事なんかに就いてたりしてお互い忙しい。 ごく有り触れた一般家庭の生活、沙夜にとってはこの生活はこの上なく幸せな日々だった。 食事も終わり就寝前、一年間経験を積んで、だいぶ慣れて来た皿洗いをしていた沙夜は、酒と肴を持って寝室に向かおうとするエリスを引き留めた。 「ん?なんだ?」 「……あの、ちょっとお時間いいですか?もうすぐ終わりますから」 洗剤で洗った食器を水で漱ぎながら、沙夜はエリスに問い掛ける。 「あー、そんなに改まって言わなくても。いいよ、テレビ見てる」 「はい」 少々時間が流れ、沙夜は食器類を全て空拭きすると、それを全て棚の中に収めて、使った調理器具はコンロの上などに置いてそのまま自然乾燥させて、食卓でハードアクション映画を鑑賞していたエリスの傍に座る。 「お待たせ」 気付いたエリスがこちらに視線を向けて、そこで我に返ったのか、何故か首を傾げる。 「ん?俺なんで今リビングに居るんだ?」 「…は?」 「ああ、沙夜が待ってろって言ったんだな。うん、確かそうだ。それで何だ?」 「…………」 この頃自分は、この人は絶対、健忘症なのだろうと考えたりする。 「…最近、エリス元気無いですね」 言うと、エリスは苦笑を浮かべて、再び視線をテレビに戻す。 「やっぱ判るか。結構ばれないように気をつけてたんだけどな」 「ぼうっとしてる事多いですし」 「……へぇ」 そして沈黙。BGMは映画から流れ出す音楽と効果音で、登場人物が意味も無く銃を乱射したりしている映像が目に入る。 沙夜は、隣の男に身を寄せた。 「……もう直ぐでクリスマスですね」 「……だな」 この一年間、沙夜が世界を知った事とは別に、心の中に知ったこと――――芽生えた感情がもう一つある。 それは恋、または愛と呼ばれる感情だった。沙夜は隣の男に恋をしていた。 まだエリスは自分を妹のように扱っているだけで、彼にはそんな感情は無いのかもしれないが、それでも沙夜の中の芽生えた感情は色褪せることはなく、その胸に確固たる物として存在していた。 「……一年前のこの季節、私以外の事であなたに何が起こったの?」 飛雪がエリスの肩に顔を預けながら言うと、彼は笑って飛雪の髪を撫でた。 「…俺の友人―――レイヴンが自殺したんだよ」 「……そう、だったの…」 「…ああ……この季節になると…嫌でも思い出すな」 エリスは、注いでから一口も口につけてなかった酒を手に取り、一口飲む。 「ほとんど……俺のせいだった…な」 そして彼は一連の話を始めた。 自分がレイヴン家業をやり始めて、あるミッションで管理者の機密情報を手に入れてしまったこと。そしてそのせいで、そのミッションに関わりのあった人物が次々と世界から揉み消されていった事。手に入れた情報は、この世界は真の世界ではなく、管理者によって作られた世界である事。地上と言う所が存在する事。 最後に、自分の所在を隠し通すために、一人のレイヴンが管理者に拘束中、強制的に自白させられる前に、自ら命を断った事――――― 聞き終えた時、微笑を浮かべた彼の琥珀色の瞳から一条だけ、涙が流れ落ちた。 優しい一人のレイヴンの涙だった。 「――――エリス」 気が付いた時、私は自ら彼に身を預けていて、自分の淡い唇を彼の唇に重ねていた―――― 生命短き 恋せよ乙女 あかき唇あせぬまに あつき血潮冷えぬまに 明日の月日は無いものを それは朝からとても冷え込む、聖夜の前日の事だった。 「――――エリスー誰か来たみたい。ちょっと今手が離せないから代わりに出てー」 丁度その時、私は今夜のためのケーキを焼いてて、続いてその他もろもろの料理を気合を入れて作っており、更に大量の食器と格闘していて、訪問者に応対できない状況だった。 「はいはい。りょーかい」 エリスと言えば、久し振りに取れた折角の休日と言うのに、私の家事の負担を減らすためだと言い、朝から部屋の大掃除なんかしていた(もちろん埃が入るので、リビングは手をつけてなかったが) 彼と過ごす二度目の聖前夜。 最初の年は、この生活を始めたばかりで、お互い色々とゴタゴタしてて、とてもクリスマスなんかやってられる状態ではなかったが、一年経ってようやく身の回りが落ち着いてきて、何とか今年はクリスマスパーティーが出来そうだ。 生まれて始めてのクリスマスパーティーだった。 ―――――――【見上げる濃灰色の空】第五話―――――――――― 「――――エリス・アドワード様ですね?」 玄関越しにいる誰かとエリスとの会話が、沙夜の耳に入ってきた。 沙夜は最初、その会話の異常な状況を確認することが出来なかった。 どこか引っかかるものを感じつつも、その正体に気付かず――――――――その異常に気が付いた時、手にしていた食器が滑り落ち、甲高い音を立て、割れた。 何故、エリスが本名で呼ばれているのだろう――――――― 「エリスッ!!」 沙夜は即座に玄関まで出て、玄関越しの人物を見やった。見覚えのある着物姿の女が二人。 多分に漏れず、彼女達も鋼糸使い。一人は沙夜の師でもあった程の達人だ。 鋼糸――――思わず手元を見る。駄目だ、部屋に置いてきている。 緊張する沙夜に、エリスはただそっと左腕を前に差し出した。 まだ動くな、と言う意味のようだ。 「……ああ、俺がエリスだ」 そうですか、と女は落ち着いた動作で玄関へ一歩踏み出す。当然沙夜は身を強張らせた。 だが、昔沙夜の侍従だった女からは殺気と言うものがまったく感じられず、その証拠に彼女は二人に微笑を浮かべて見せた。 沙夜も初めて見る、彼女の微笑だった。 「―――やはり沙夜お嬢様もおられましたか。ご無事で何よりです」 女はそう言って丁寧なお辞儀をする。当然沙夜は困惑した。 この訪問の目的、良くても沙夜の連れ戻しか、最悪の場合二人共々暗殺と言うのが沙夜の居た家の掟――――家で日課のように行われていた事だ。 「―――――どう言う……事?」 思わず沙夜は疑問の声を上げた。顔を上げた女の表情に少々の焦りが出ていた。 「―――あまり悠長にしているわけにはいきませんので、手短にお話し申し上げます。―――御父上様がお亡くなりになりました」 「…えっ…?」 父は別に持病も、危険な病気も持ってはいなかった。急な事故―――と言うことなのだろうか。 しかし、それがわざわざ沙夜を虱潰しに探し、知らせる程の物だろうか。こちらは任務失敗をして、暗殺目標の男と駆け落ちしたと言う、家にとっては汚点以外の何者でもない女なのだ。 一人娘の沙夜に家を継がせる目的ならば話は別であろうが、血縁者は他にもいる。何も沙夜でなくても良いのだ。 「……管理者の手によるものです…突然の強襲で御座いました。屋敷に実働部隊が送り込まれ、御父上―――翡翠様も出陣なされたのですが、何分多勢に無勢…非業の死を遂げられました」 「そんなッ!!」 「…なるほど。闇から闇へ――――機密情報を完全に隠蔽するための強襲か」 「……左様に御座います」 エリスが沙夜の前に上げた腕を下ろした。そして硬い表情を浮かべて口を開く。 「それで、あんた達は何を言いに来た。こいつ―――沙夜を連れて帰るって言うなら、彼女が構わなければ別にそれでいいが」 驚いて沙夜は上背のある彼を見上げた。彼の表情は真剣そのもの。 確かに今の形勢はこちらが不利、まともに殺り合えば、沙夜の身に被害が及ぶ事を見越しての交渉なのだろうと判ったが、それでも沙夜は、死んでもこの男―――エリスと離れる気などない。 エリスは沙夜の全てなのだから 「いえ、そういうことでは御座いません。家に戻そうとも、既に葛原家は壊滅しております。私たちは喚起を申し上げに参上しました」 そこで女は一旦言葉を切る。背後に控えていた女が口を開く 「―――――今、この街に、管理者の機密情報を奪取したエリス・アドワード様と、葛原家の生き残りである沙夜お嬢様を感知した管理者の、AC、MTを中心の実働部隊が接近中です」 「!!」 「少一時間ほどでこの街に到着―――それから虱潰しの虐殺が始まります。そうなる前に――――どうかお逃げくださいませ」 そう言って彼女達はその場で平伏する。エリスが肩膝をつき、彼女達に顔を上げるよう促す。沙夜は、ただ呆然と立ち尽くしていた。 その場の空気が凍りつく中、エリスが口を開いた。 「……あんた達はどうする」 エリスが聞くと、再び立ち上がった彼女達は世にも儚げな微笑をエリスに向け、こう応えた。 「私達は一生死ぬまで葛原家の侍女―――忠臣で御座います。当主――翡翠様がお亡くなりになりました今、葛原家の当主は沙夜お嬢様のみ」 「……死ぬ気か…あんた等…」 「例え管理者に歯向かおうとも、主の為に身を呈する事。その結果が"死"であったとしても、それが、"忠義"というもの。我々侍従にはこの上ない"名誉"で御座います」 その言葉を聞いたエリスは心底苦々しい表情になる。彼の身にも、重なる人物が居たのだろう。 「……どうして世の中はこう馬鹿な奴らばかりいるのか…アイツも、あんた等も」 侍従はニコリと笑い、その微笑を沙夜のほうにも向け、また一礼。そして踵を返し玄関から出て行こうとする。 侍従の身分を現す藍色の着物を身に纏い、陽の楽光の降り注ぐ、その後ろ姿―――なんと神々しいことか。 沙夜はただ何も言う事が出来ず、ただ唇を噛み締めて彼女達を見ていた。そこへ一声。 「―――――沙夜お嬢様」 「……はい……」 「御父上―――翡翠様は一人娘であったお嬢様に、この家の殺しと言う呪いから解き放ちたいと、常々私めに語っておられました」 「…え?…そんな、まさかッ!!」 一拍おいて彼女の言った言葉が沙夜にも理解できた。思わず口元を抑え、嗚咽を押し留めるが、瞳からハラリと落ちる涙までは止める事が出来なかった。 「…亡き翡翠様の長年の願い。きっと報われた事でしょう。沙夜お嬢様―――――」 彼女はほんの少しだけ、後ろを振り返る。 「――――良い表情になられましたね」 その微笑を最後に、彼女達は部屋を後にした。 沙夜は涙を堪え、嗚咽を堪え、その場に両膝を着いて、姿勢を正しその後 深く、叩頭。 瞼の裏に焼きついた彼女達の表情。 それは、決して消えぬ、天使の微笑。 「…………あなたまで、私を置いていくの?」 既に身の周りの整理を終えたエリスの背中に、沙夜のどこか悲しげな声が響いてきた。 ―――――――――【見上げる濃灰色の空】第六話――――――――― エリスは振り返らず、硬い表情のまま彼女に応える。 「あの女達だけでは、そんなに持たないだろう。俺も出て部隊を食い止める」 エリスはただ、自ら感情を殺して一気に言い放った。 その背に、暖かい温度を燈った両腕が回されて、一拍遅れて沙夜の体温が背中に感じられた。 優しい、控えめな抱擁―――― 「……お願い、行かないで……」 涙声になって懇願する沙夜に、ドアを睨んでいたエリスの心中に苦い物が湧き上る。だが、此処で留まる訳にはいかなかった。 フッっと笑って表情を解し、回された腕をゆっくりと引き離す。そして背後を振り返って――― 「ばーか。何でそんなしみったれた声出してんだよ」 馬鹿みたいに明るい声を出してみたりして。 「…………」 「オイオイ。まさかこの俺が管理者の馬鹿どもに殺られるとでも思ってんのか?これでもA-3レイヴンなんだぜ」 「…………」 沙夜は口を真一文字に結んで、唇を噛み締めている。一年前、同じような事があった気がするが、その時は二人とも、こんな立場ではなかった筈だ。 一年前と随分雰囲気が変わってしまった彼女を見て、微笑が浮かんだ。 「クリスマスパーティー、やるんだろ」 「……うん」 沙夜はただ、頷いた。その臙脂色の髪を撫でてやる。 「危険になったら帰ってくる。絶対帰ってくるから。――――クリスマスパーティー、やろうな」 「約束……してくれる?」 「ああ。約束する」 「絶対……帰ってきてくれる?」 その時、エリスは沙夜をきつく抱きしめていた。強く、優しく、しかしどこか切ない抱擁―――― 「ああ。帰ってくる」 臙脂色の長い髪が、エリスの頬を擽った。沙夜の両腕がエリスの背中へと回される。そして二人は契りの接吻を交わす。 「だから、お前は逃げ延びろ。絶対俺を置いて死ぬな――――」 彼女の耳元でそう呟き、続けて逃げ延びた後、彼女と落ち合う場所を指定して言った。エリスの腕の中、沙夜はただ頷いた。 絶対俺より先に死ぬな。それがエリスが沙夜に教えた、最後の言葉だった。 エリスが沙夜から腕を放すと、彼女も同じように腕を解いた。エリスは彼女に微笑を浮かべた後表情を引き締め、一度も振り返らずに部屋を出て、ガレージのある場所へと駆け出す。 そこにはエリスの機体――――― シュテルゲン・エンデが運ばれている。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 高鳴る電子音。久し振りのこの感覚、何故か背筋が震えた。 断熱されている筈の外気がコクピットまで伝わってきているような錯覚を覚えたのだ。 もちろんそんな筈はないのだが。 電子音は次第に高くなり、巨体の四肢が低い金属音の唸りを上げる。センサーアイに赤い光が灯る。ディスプレイに次々と計器が表示されていき、レーダーに赤と緑の点が表示される。赤い点の数――――およそ五十。 前方をしゃしゃり出て来た戦闘機群に六連ミサイルを放つ。そこから戦闘が始まった―――――― 「悪くない人生だった……な」 既に少数の味方部隊は壊滅しており、火の海と化しつつある街に、赤と黒の色調のACが単機、バズーカとミサイル、そして巨大なブレードを駆使して、圧倒的に数の多いMT、ACの強襲部隊を相手にしている。 ただ一機、敵部隊の街の進行を食い止めるそのACは鬼人の如き強さで、一機、また一機とMTを破壊していき、その残骸は既に二十を越えていた。残骸の中には、敵ACの物と思しき残骸もあった。 「なんで、良い奴ばかり先に死んじまうのかねぇ」 言いながら、上空を通過しようとした戦闘機に一太刀浴びせ、バズーカをMTに、ミサイルをACに叩き込む。 自分は恵まれていたと思う。よき友人に出会い、そして何度も助けられた。だがそれも――― 「お前等にぶち壊されたんだよな」 OBを発動し、ミサイル群を回避しつつ、ACに急速接近する。敵ACの数発のエネルギーライフルがコアの装甲を抉ったが、赤いACは怯むことなくその懐に取り付き、敵のライフルが発砲される前にバズーカのトリガーを引く。 敵ACのコアがバズーカ弾の黄色い光に包まれる中、次の動作で左腕の青白いブレードを一閃、刀身を返し、また一閃。それで片はついた。 エリスは、自分がここで死ぬまで戦って敵の進行を食い止めることが、自分より先に死んでいった戦友達への、せめてもの餞になると考えていた。 しかしこの戦いには、戦友への餞と同じくらいの、否、それ以上の引けない理由があった。 「……沙夜には、俺の方が助けられたような気がするな」 一人そう呟き、自分が残してきた一人の少女―――いや、もう立派な女性の事を思う。 優柔不断な自分の隣に居るには、少々勿体無すぎる女性だった。 あの日、彼女に出会ってなかったら自分はそのまま自殺していたかもしれない。あの時はそれくらい気が滅入っていた。 だが、そんな荒んだ自分の目の前で、自殺を試みる彼女に何故か手が出た。 そこで自分は沙夜に、救われたのだと思う。沙夜は、自分が彼女に生き方を教えると言う"生き甲斐"を与えてくれた。 群がるMTにバズーカとミサイルを打ち込み、終にバズーカの弾が切れた。好機とばかりに攻勢を強める敵部隊の弾幕を回避しつつ、片手をキーボードの上に走らせ、ミサイル発射プログラムを自動ロック、自動発射させるよう書き換える。そのついでに、あるオプションパーツのロックを解除する。 『特殊パーツ―――INTENSIFY―――起動します』 CPUの声が響く。それはパイロットの中で禁忌とされる、一度使用すれば最早後戻りの出来ぬ、特攻用の特殊パーツだった。 INTENSIFY――――使えば機体の持つ全てのポテンシャルを引き出し、装甲、出力、機動性、火器管制、攻撃修正などの機能を大幅に上昇させ、パイロットにも耐久力、体力、筋力の肉体強化をもたらす。しかし、使用したパイロットは、戦闘終了と共に人体に被る膨大な負荷により命を落とすか、仮に生き延びても、強烈な極限状態からの解放で精神に異常をきたし、修羅と化すかの運命を辿る。何れにしろ自我は壊れる。 エリスは、微笑を浮かべて、特殊パーツの最終ロックを解除した。 彼は自分の持つ全てに、別れを告げたのだ。 恐怖は、無かった。自分の死は――――沙夜の生になる。沙夜が生き続けてくれるのならば、他に何も要らない。 自分が死んだ後も、沙夜の心にエリスという存在がある―――それで十分。 ミサイルの弾が切れた。敵MTはほとんど壊滅状態に追いやられていたが、まだ敵ACが三機残っていた。実働部隊は何の情もかけず、三機同時にポッドを開き、赤いACにミサイルを放つ。その数およそ二十。それらは無情にも赤いACの装甲を破壊していき、粉塵を撒き散らし、辺りを火の海へと変える―――― 視界を埋め尽くす粉塵の中、一機のACの重い足音が響く。 三機の敵ACは微動だにせず、青いセンサーアイは粉塵を凝視し続ける。 やがて、粉塵の中から所々が欠けたACの筐体の影と、針の振り切れるような音を立てて形成された青く輝く長刀が見え隠れした。 響くOBの呼吸音―――― 同時に、三機のACはライフルを影に照準する。 「―――――沙夜……もう俺が居なくても、お前は一人で、歩けるよな」 愛しき者に告げた、聞く者すらいないその言葉。 それが、アリーナの三本指に入る男の、最後の言葉となった。 シュテルゲン・エンデ―――"死の終末"は残された月光一本、三機のACに向かい最後の輝きを放つ―――――― からん、とグラスに入った氷が溶け、表面のガラスに当たり高い音色を響かせた。 「――――せーんぱい?さっきから私の話、聞いてます?」 ここはGC―――グローバルコーテックス管轄下の街のとある高級料理店。 深々と舞い降りる雪を無感動に見ていた私の物思いは、後輩の子のその言葉で終わりを告げた。 「ええ、聞いてるわよ。アリシア」 私は微笑を浮かべて金色の髪をした彼女―――アリシアに言ったが、彼女はどこか仏頂面で 「えー、絶対聞いてなかったでしょぉ?なんかぼぅっとしてましたし」 猫みたいな声で言って来た。何故かその台詞は昔、自分が誰かに言った台詞と酷似していて、思わず苦笑が漏れた。 「そうね。ちょっと昔の事考えてた」 笑い混じりに言うとアリシアはにこりと笑い 「男でしょ?」 と無邪気に、鋭い言を飛ばす。正にその通りだったので私は頷いた。 「この季節になると、思い出すのよ」 応えてグラスに一口つける。私が言うと、何故かアリシアはその可憐で愛らしい顔に困った顔を浮かべ、軽く溜め息をついた。 「先輩ってさぁ、まだ二十七でしょ?そんな綺麗なのに、未亡人のままでいるのは、勿体無いと思うけどなぁー」 私は肩肘をつき、視線をアリシアから窓辺に移し、再び微笑を浮かべた。 「……そっか。私もう二十七になったんだ」 深い臙脂色の髪の女は、誰にともなく呟き、十一年前の夜のように、窓辺に映る濃灰色の空を見上げる。 ――天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ 乙女の姿 しばし留めむ―― 心の中で、私は遠い昔に諳んじたその詩を復唱する。 私が彼と最後に会話をしたのは、もう十年も前の事だ。 ―――――――【見上げる濃灰色の空】最終話―――――――――― 「おーい、先輩。自分の世界に入らないでー」 「聞いてるわよ。でもほら、私子供もいるわけだし」 穏やかに沙夜はアリシアに言った。アリシアはむぅ、と唸って――― 「子持ちでも全然OKだとおもいますけどねぇ。私は」 首を傾げて、沙夜の体を上、中、下、と三ポイントに絞って検分してくる。 結構妖艶な視線で恥ずかしかったが、きっと彼女なりに沙夜が一人身だと言う事を心配しての行為だと思い、我慢しておくことにした。この子は世話好きな子だから。 「そんなことより。あなたの方はどうなのよ」 「ほえ?何の事です?」 「しらばっくれてもダメよ。あなたが最近配属になったパイロットと熱愛だってことは、オペレータなら誰でも知ってるわよ」 沙夜が言うと、彼女は顔を赤く染めて、テーブルに乗り出さんばかりに反論する。 「ああああなんなのと熱愛ですってぇ―――ッ!!?ご、誤解ですッ人聞きの悪い事言わないで下さいッ!!悪寒が走りますッ!!」 あんまりアリシアが大声で叫ぶものだから、クリスマスで賑わってた店の客の視線が、一気にこのテーブルに集中する。 「あら、結構いい人みたいじゃないの。 スタイル良いし、センス良いし、ピアノの腕も天才って言うおまけ付よ。 早めに取っとかないと、いくらあなたでも他の子に取られちゃうわよ。コレ、先輩としての忠告」 私が揶揄って言うと、アリシアは本気で怒ったようで、そっぽを向いたりして 「別に誰に取られようが構いませんよあんな人ッいくら格好良くても性格―――――あ?」 不意にアリシアが言葉を切る。彼女の見ている方向に沙夜も視線を合わせてみると、店のドアが開き、外から件の男――――エディフィル・レインベルが姿を現した。 鋼色の黒い髪に、黒い装いが似合う、自分と同年代くらいの彼の特徴的な青い瞳がこちらを捉えると 「アリシア――――ッ!!会いたかったよ――――!!」 などと、人目をまったく気にしない言葉を発砲しながらアリシア向かって一直線に突撃してきた。 どうやら熱愛と言うのは真実らしい。 「来るなこの馬鹿ッ!!」 対するアリシアはハイヒールで彼の鳩尾に一蹴り。踵でだ。エディフィルはグフゥ、とクリスマスの夜、最後の断末魔の上げ、絨毯の上に突っ伏した。が、三秒後に復帰する。 店の方々からの痛い視線が集まってくる。 「ほら、二人ともその辺にして。あまりにハードアクション過ぎて店の方々迷惑そうだから」 沙夜が言っても、まだアリシアはかなり不快そうな顔をしていたが、しぶしぶとエディフィルから視線を外しグラスを手に取り、モスコミュールを一気に煽る。 「そうそう。あんまり未来の夫たる俺をグハッ!!――――――おや、そちらの綺麗な方はどなた?」 台詞の途中でアリシアの手刀が鮮やかに閃いて、妙な擬音語が響いた。元暗殺者だった沙夜から見ても、申し分ない素晴らしい一撃だった。余程練習したのだろう。 ようやくアリシアの向かい側に座る沙夜に気付いたのか、攻撃から瞬間的に復活したエディフィルが、目を丸くして沙夜を捉えた。 「GCの先輩の沙夜・アドワードさんよッほらあんたも突っ立ったままじゃなくて座りなさいよッ」 アリシアに不機嫌極まりなく言われると、エディフィルは先程の様子からは信じられないほど神妙な顔をして、ちゃっかりアリシアの隣に座った。 「アドワード――――?もしかして、エリスの?」 エディフィルの口からそんな言葉が漏れた。その言葉に沙夜は驚く。 「……あなたエリスを知って……」 沙夜のその言葉で確信したのか、エディフィルはああ、と声を漏らし、そして頷く。アリシアも場の雰囲気を察したのか、驚いたような顔をして二人を交互に見た。 「ええ、エリスとは戦友…っていうか、俺の兄貴のような奴でしたから……そうですか、あなたがエリスが話してくれていた葛原 沙夜さんですね」 言い終えた後、彼はどこか懐かしむような表情を浮かべ沙夜を見た。 後輩のオペレーターのその専属パイロットが、今は亡き自分の恋人と戦友――――そう思うと不思議と笑みが出た。 「縁(えにし)とは―――不思議なものですね」 それからクリスマスらしい軽い談笑が続き、様々な話題が出ては時が過ぎていった。 「―――――――じゃあ、私はそろそろ帰るわ。子供も待ってるから、ね」 「えー先輩、私を残さないで下さい。この人に襲われます」 「何を言うんだねアリシア君。"僕"がそんな男に見えるのかね?」 「見えるから言ってんでしょうが。このド助平」 「……むぅ」 「クスクス、まあ、頑張りなさいアリシア」 アリシアもなんだかんだ言って、結構満更でも無いような気がする。当然、気がするだけで決して口には出さないが。 私は言い残すと、勘定を済ませ、その高級料理店を後にした。 人の多い大通りをしばらく歩くと、師走の寒気が、露出している肌をそろりと撫でた。 人込みに流され自然と歩幅が早くなる中、ふと沙夜は立ち止まり、最後に一目、もう小さくなった店の外観を見やった。 毎年この季節、この日になると、叶わぬ契りと知りつつも、ついこの店まで足が向いてしまう。 この高級料理店は、十年前のあの日、私とエリスがクリスマスに落ち合う事に決めていた店だった。 十年間待ちつづけたが、遂にエリスはこの店に姿を現さなかった。 (もう、ここに来るのも今年で終わりにしましょうか) 微笑と共に、そう心に止めておいた。 「十年――――か」 それは心の区切りとも言える年月なのだろう。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― 家に帰ると、最初に目に入ったのは、テーブルで毛布を被って突っ伏していた我が子の寝顔だった。 クリスマスパーティーはイヴの日にやっておいたので、今日は仕事で遅くなるから、先に寝てるよう言っておいたのだが、どうやら遅くまで待ちつづけていたらしい。 沙夜は我が子にそっと近づき、テーブルの上ですやすやと寝ている――――デュランの、その"銀髪"を愛しげに撫でた。 「この髪は、お父さん譲りの色ね。あなた本当に父さんに似てるわ」 今年で九歳になるデュランは、くすぐったそうに唸るとしばし沈黙し、その後何かに気付いたようにハッと目を覚ました。 「……あ……母さん、お帰り」 テーブルの上で、デュランは眠たそうに眼を擦りながら、寝ぼけた声でそう言ったが、その後くしゃみをする。 「御免なさい、起こしちゃったみたいね。でも、そんな所で寝てると風邪引くわよ」 「ふぁーい」 そう言うとデュランは多少、覚束無い足取りで自室へと向かったが、部屋に入る前、洗面所へ向かった沙夜の方を振り返る。 「……母さん」 「ん、なに?」 「さっき、親父がどうとか言ってなかった?」 「さあ?」 苦笑混じりに言って、沙夜は化粧を落とす作業を再開する。 「……お休み」 「お休みなさい。デュラン」 パタン、とデュランの部屋が音を立てて閉まった――――――――― 今、沙夜はとある高級料理店の前にいた。 濃灰色の空からは絶えず白い牡丹雪の切片が舞い降りて来て、自分の吐く息は白く、だがそこに冷気は感じられなかった。 (――――ああ、偶に判るんだ。自分が夢の中に居るって、そう自覚できる事) 見れば自分は臙脂色の着物を着ていた。 (最後にこの着物を着た日は何時だっただろう。思い出せないなぁ) ガラスに映る自分の姿を見て失笑が漏れた。何故か自分の姿が十ほど幼くなっていたのだ。 そして気がつくと、自分は店の入り口を開けていた。 (私ってもうここに来ないって決めたんじゃなかった?―――まあいいか。どうせ夢の中なんだし) さっき決めたばかりの事を思い出しつつ、それでも店の入り口を潜ってしまった自分に苦笑する。 『――――お嬢さん。ご注文はお決まりでしょうか』 テーブルに座ると、記憶に新しい、つい先程会ったばかりのウエイターが注文を取りに来た。お酒や料理を適当に注文した後、自分の今の姿が十七歳だという事に気付いた。だが、ウエイターは年齢に気にした様子もなく、にこりと笑い「かしこまりました」と、一礼して去っていく。 しばし経った後、ソムリエがグラスと共に食前酒を運んできて、長々とこのワインの歴史なんかを説明しながらワインボトルのコルクを抜き、赤く透明な葡萄酒をグラスに注いでゆく。 (あれ―――?) 口上を片耳だけで聞いていた沙夜は、その場の不審な点に気付いた。ワインの注がれたグラスが――――二つあった。 「あの、グラスが一つ多いのですが」 沙夜は説明を続けているソムリエに問うた。ソムリエは説明を中断し、不思議そうな顔をして 『―――此方の方には不要でしたでしょうか?』 と、沙夜の向かい側の席に座る人物を指す。 「え?――――」 『おいおい、なーに妙な事言ってんだ。当然、俺も飲むぞ』 何時の間にか、誰もいない筈の向かい側の椅子に、男が座っていた―――― 銀髪のその男から、怪訝な色の、懐かしい野太い声が響く。呆然とした自分の瞳に、まるで条件反射のように熱い者が込み上げてくる。咄嗟に口元を手で覆った。 『ん、どうした?なんで泣きそうな顔してんだよ。あぁッ泣くな!』 ほろり、と涙が零れた。十年間、夢にすら出てこなかった男――――エリスは、琥珀色の優しい瞳に、動揺を浮かべ沙夜に言った。 「……馬鹿……来るの遅すぎ……よ」 沙夜は涙で声を震わせながら、彼に文句を言った。 彼がいなくなって、本当に色々なことがあったのだ。 十年前の夜、約束のこの店に入ってきたのは、エリスが死地に向かう前に彼から伝言を託された、エリスの知り合いの女性のオペレーターだった。 沙夜は彼女の元でお世話になりつつ、更にはオペレーターの勉強もさせてもらった。 その時、沙夜は新しい命を授かっていて、彼女の助力―――つまりエリスの一言が無かったら、エリスと沙夜の子―――デュランはこの世に生まれて来なかったかもしれない。 無理に浮かべた微笑に、再び涙が走った。俯いて堪えようとしたが、既に堰を切ったように涙が止まらなくなっていた。 そんな自分を、彼は優しい笑顔を浮かべて見守りながら、言った。 『――――言っただろう。帰ってくるって』 何度も何度も沙夜は頷いた。 話したいことはたくさんあるのに、どれも口から出ず、結局沙夜の口から出たのは、色々な思いの詰まった、この一言―――― 「ありがとう、レイヴン―――――」 約束を守ってくれて、ありがとう――― 子供を与えてくれて、ありがとう――― 私を籠から解き放ってくれて、ありがとう――― 私、一人でも、歩けたよ――― 遥かなる時の奔流の中で、彼は約束を覚えていてくれた。クリスマスパーティーをするというその約束を。 そして約束通り、クリスマスのその夜、彼は夢の中で帰ってきた。 ようやく、涙が収まってきた。沙夜はあの日、あの時の姿のままで、ワイングラスを取る。 「――――乾杯、しましょうか」 目元を擦りながら沙夜は言った。今度は無理なく笑えた。それを聞いたエリスも、フッと笑ってグラスを取る。 『ああ』 「――――Happy merry Christmas――――」 からん、とグラスを鳴らす高い音色が、確かな現実感を持って響いた――――――― ――あらざらむ この世のほかの 思い出に いま一度の 逢ふこともがな―― |
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